今年の春頃、うちのお寺から歩いて数秒のところに、
新しいスーパーができます。元々は銀行があったところで、その銀行が支店をたたんだので、その跡地に京都でチェーン展開しているスーパーができることになりました。
今、その工事の真っ最中で、すでに基礎はできあがっています。
うちのお婆さんは、「こんな近かったら、うちに冷蔵庫いらんで」と冗談を飛ばしながら、この新スーパー誕生を歓迎しています。
確かに、齢80を超え、足腰もだいぶ弱ってきた祖母にとっては、必要な日用品を揃えようと思ったら、歩いて10分弱かかる大手スーパーまで買い物に行かなければなりません。
そのことを考えたら、格段の違いでしょう。
しかし、元々
「墨染商店街」として数多くの専門店が建ち並んでいたお寺の前を東西に横切る墨染通りは、もはやかつての面影も残さず、
コンビニや美容室や駐車場が立ち並ぶ通りへと変わっていきました。昔ながらのお店は、数えるほどしか残っていません。
そう考えると、スーパーが目と鼻の先にできることを手放しでは喜べない気持ちになります。
先日、宗門から
『宗報』が送られてきました。

これは、日蓮宗が毎月発行している寺院向けの機関誌で、日蓮宗内外の情報が掲載されています。
その『宗報』の
「現宗研だより」というページに、
現宗研所長である三原正資上人が、福島県いわき市生まれの社会学者の
開沼博さんの著書を引用されながら、次の文章を寄せていらっしゃいました。
開沼さんは、沖縄県名護市長選のマニフェストを見せられたときのことを次のように書いている。
「名護市を観光地として盛り上げ、雇用を生み出すことなど、様々な目標が掲げられていた。そして、そのページの一番下に書いてあったのが、「スターバックスを誘致します。まちなかの憩いの場の一つとしてスターバックスを誘致します」という文言だった。(略)「東京的なるもの」の誘致によって、この地に明るい未来が開かれていくんだという夢を住民に見せる」
私は3.11後、しばらくして注目を浴びた開沼さんのものの考え方をつねに意識したが、その考え方そのものは60年代から70年代にもただよっていたと記憶する。それを意識しないでいられなかったのは、私自身、現在も本来の生活の場は「地方」にあり、私の街-広島県福山市-の<スターバックス>も人びとの評判になるからだ。1950年代の終わりに誘致した製鉄会社の景気は昔ほどではない。たまたまゲンパツではなかっただけで、溶鉱炉が夜通し赤い炎を吹き上げていた頃は、大気汚染とともに経済はうるおった。地方都市の悩みはどこも同じである。
郊外に大きなショッピングモールが建ち並び、地元の商店街が軒並みシャッターを閉めた地方の風景は、もはや当たり前の風景と化しました。
日本中のどこに住んでいても等しく同じような消費ができる、という夢を叶えるために建ったその「東京的なるもの」は、実はそれはもっと大切なものを失いながら、
代償を払って得た現実となってしまったのではないでしょうか。
近所に新しいスーパーができる、という小さな日常の変化から、大きく話が飛躍した感がありますが、
日本の問題の相似形として見えてしょうがないのです。京都は言っても都市部、贅沢なことを言う、とお叱りをうけそうです。また、便利になることは、悪いことばかりじゃないことは分かっているのですが、何かモヤモヤしたものが残ります。
何百年もその土地に根ざして教化活動を行ってきた「お寺」に期待されている役割は大きい、今回現宗研の記事を読んでそう思いました。その期待をお寺や僧侶が担えるか、ここに相似形の問題を解決する糸口があるのでは、と勝手に考えています☆
なかなか実践に移せないのが、難点です。反省。。。
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- 2013/01/22(火) 21:22:16|
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12月に入りました!!!「師も走る」という
師走。
「師」とは
「お坊さん」のこと。お坊さんが走り回って忙しくしているようすから、年の瀬の気ぜわしい様を表して「師走」となったそうです☆
かくいうわたくしぴぐ坊も、そろそろ師も走るような感覚に追い立てられています(^^;)
何はともあれ、寒さが一段と厳しくなってきましたので、お風邪など召されないよう、お身体ご自愛頂ければと思います。
さて、久しぶりの【今日のなるほど】ですが、今回は『第四の消費』という本を読んだのでご紹介します。

著者は三浦展さんという方で、マーケティング雑誌の編集長を経て、
家族や消費、社会構造などについて研究されている方だそうです。
経歴には
「新しい社会デザインを提案」と書かれていました。
この本では、
戦前から戦後、そして現在にかけて、日本人がどのような消費構造の中で生活していたのかを分析し、これからの消費社会や社会システムがどうあるべきか、というようなことについて論じていらっしゃいます。
帯はこんな感じでした↓

まず著者の方は、戦前から戦後を経て現在に至るまでの消費社会の構造を4段階に分けて説明されています。
詳しくは書きませんが、戦後の経済成長路線を歩んだ日本は、「大きいことはいいことだ」と右肩上がりの成長を続け、「一億総中流」と呼ばれる一斉に横並びの社会となりました。
地方も都市部と同じ消費社会を目指し、郊外にはショッピングセンターが建ち、中心部の専門商店街がシャッター通りと化し、空洞化しました。
消費の中心が家族向けからどんどん個人向けに移っていき、
「個性・私有」ということが消費に対する価値観となっていきました。
これが、第二の消費社会から第三の消費社会に至るまでの日本の状況だった、と著者は書いています。
それに対して、これからは第四の消費社会に移っていく、その社会は
「シェア」や「つながり」を重視し、かつ
消費に対する価値観を「個人」ではなく「社会」に向けていくべきだ、と仰います。
このことを、以下の表現で述べられています。
日本中に巨大ショッピングセンターができたことによって、日本中で同じような消費が楽しめるようになった。しかし、消費は東京並みになっても、地域固有の文化が空洞化している。将来、人口が減少し、ショッピングセンターなどの採算が合わなくなり、それらが地域から撤退すれば、残るのはシャッター通りと巨大なショッピングセンターの抜け殻、つまりは廃墟である。
ショッピングセンターを中心とする消費文明をいかに享受している人でも、自分の住む地域の将来が廃墟でいいという人は多くないと思う。その廃墟を再生しようとするとき、重要となるのは、やはり地域の歴史への愛着であり、誇りであろう。
日本人はいま、まさに地方への誇り、地域への誇りを触媒として、あらたにつながりを持とうとしているのではないか。それは、第三の消費社会において追求された「自分らしさ」という小さな物語などよりは、はるかに歴史があり、地に足が付いている。そういう物語を人々は今求めている。
この文章を読んで、
コンビニより数が多いと言われるお寺が、この
「地方への誇り、地域への誇りを触媒として、あらたにつながりを持とうとしている」社会を担っていくべきなのだと思いました。
先日行われた
「いのりんぴっく」でも、出店協力して下さったお店もたくさんありましたし、足元が悪い中たくさんの方にお参りして頂いたりと、成功裏に終えることができました。
私は、これは「お寺でのイベント」という物珍しさだけではなく、そこにやはり
「伝統」とか、今回の
「祈り」というテーマに何か感じてくれたからこその結果ではなかったか、と感じています。
どのような形であれ、人と人がつながる場所を提供していくことこそが、これから寺院に求められていることなのだと、改めてこの本を読んで感じました。
今回、マーケティングを専門としてきた方の本を初めて読んで、遠い世界の事かと思っていたことが、今後のお寺の在り方と深いところで繋がっているな、ということを感じました。(少し?と思う部分もありましたが(^^;))
「新しい社会をデザインする」という視点を持って活動されている方がたくさんいらっしゃる、ということも知りました。
檀家さんだけではなく、地域の方やそれ以外の方でも、ご縁が結べる場を、お寺が作っていく必要性を感じました。
これからの自坊の在り方にも、深い視座を頂きました☆
- 2012/12/04(火) 23:51:32|
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9月に入りました!先日は、「
ブルームーン」ということで、キレイな満月が夜空に浮かんでいました☆
お月様がキレイな季節になって参りました。
朝晩が涼しくなって段々過ごしやすくなってきています。
暑い夏が終わり、秋がやってくる。また季節が巡っていきますね。
さて、【今日のなるほど】、本日は
岡潔 著
『春宵十話』を読んだのでご紹介いたします☆

岡潔さんは、京大出身の
数学者だそうで、数学の研究はもちろん、名随筆家としても知られています。
「数学者」ということで、理詰めで語るイメージがありましたが、その眼差しは非常に柔らかく
「日本という国」、「東洋的なるもの」を常に心に抱き続けていらっしゃった方なのだなあと、文章を読んで拝察しました。
本の中で
「教育」について語られている部分がありますが、
「"情緒"というものを教育では教えていかなければならない!」と仰っていました。
また、「はしがき」には、
「私が急に少しお話ししようと思い立ったのは、近ごろのこのくにのありさまがひどく心配になって、とうてい話しかけずにはいられなくなったからである。」と書かれています。
1963年のことです。
今こそ岡先生に語ってもらいたい、そんな
"今の"「このくにのありさま」を思います。
さて、今回の印象に残った部分を紹介します。
よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。
「自分らしく」、
「自分探し」という言葉が時々聞かれますが、ともすれば
「自分」というものに囚われすぎて抜け出せなくなる、そんな危険もあるかと思います。
「自分」を越えたところに境地があるのだろうと思います。
上の文章を読んで、非常に
仏教の考えと近いところがあるなあ、と思いました。
宮澤賢治さんの
「雨ニモマケズ」の一部分、
「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」も、上の文章と通じる部分があるように思います。
我欲を捨てて、仏道に精進する。。。
「聞法歓喜讃 乃至発一言 則為已供養 一切三世仏」(法を聞いて歓喜し讃めて、ないし一言をも発せば、則ちこれすでに、一切三世の仏を供養するなり。)
そんな生き方ができればいいな、と思いました。
- 2012/09/03(月) 23:55:51|
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梅雨が明けました!!暑い!!連日の猛暑日となって、体調を崩されている方も多いのではないでしょうか?
かくいう私も、ここのところ、体調が芳しくありません。。。
でも、まもなくお盆!そんな泣き言も言っていられません!
体調を万全に、暑い夏を乗り切りたいと思います。
皆様も、どうぞ熱中症などには呉々もお気をつけ下さい。
節電はほどほどに。。。
さて、【今日のなるほど】、
今回は
鷲田清一さんの『死なないでいる理由』という本を読んでいます。
鷲田さんは、
大阪大学の総長を昨年までお務めになられた方で、臨床哲学、倫理学を専門とされているそうです。
鷲田さんの本は、
『<弱さ>のちから』とか、
『「待つ」ということ』など、惹かれるタイトルが多く、前から気になっていました。
「弱さ」にちからがあるとはいかに?とか、「待つ」ことについて真剣に論じるなんて不思議!と思ったり、なんだか切り口が面白いな~と思っていました。
ということで、今回は中でもとびきり惹かれたタイトル
『死なないでいる理由』を選んで購入しました。

まだ読んでいる最中ですが、仏教でいうところの
「四苦」つまり
「生・老・病・死」のことや、「家族のこと」や「人と人との関係」の話、また「じぶん」というものの存在についてなど、鷲田さんなりの向き合い方で書かれていて、非常に興味深く読ませて頂きました。
ということで、【今日のなるほど】な部分をご紹介します。
何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、「これができたら」という条件つきでひとが認められる社会である。裏返していうと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、場合によっては、学校や家庭のなかでも、ひとはいつもじぶんの存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせてゆく。じぶんが「いる」に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的にじぶんに向けるようになる。会社で、学校で、そして家庭のなかでも。
ひとびとが公式の関係をはみ出たところで、何の条件もつけないでたがいにその存在を肯定しあえるような「親しい」関係を求めるのはそういうわけである。鬱屈した気分のなかで、男も女も、そして子どもも、じぶんを肯定できないという疼きに苛まれている。そして、何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け入れてくれているような、そういう愛情にひどく渇いている。(中略)
が、たがいが存在をそっくり肯定しあうような関係は重すぎる。裏返していえばそれは、他人にこのじぶんの存在をそっくり肯定してほしいという、深い相互依存の関係でもあるからだ。そのひとがいないと生きてゆけないという、逆の危機にひとを誘い入れるからだ。
いまわたしたちにほんとうに必要なのは、そういうねっとり密着した関係ではなく、距離をおいてたがいに肯定しあう、そういう差異を前提とした関係なのだろう。
少し前の教育の現場では、運動会などで順位をつけるのは不平等なので、みんなで手を繋いでゴールしていた、という話を聞いたことがあります。
是非はともかく、私は、行き過ぎた平等教育、もう一つ言えば、間違った平等を押し付けているように感じます。
「異質の他者」「差異」を認められない人間に育ってしまうのではないか、と思ってしまうのです。
ちょっとズレている、ちょっと人と違う、ということだけで、簡単にその人自体を否定してしまうようになってしまうのではないか、と思ってしまいます。
今大きな問題となっている「いじめ」の問題も、根っこにはこういう問題があるのではないか、と感じています。
法華経に出てくる
「常不軽菩薩」という菩薩さまは、全ての人に「
仏身」、つまり仏さまの姿を見出して、全ての人びとを礼拝されました。
行き交う人びと全ての方々に対して、頭を下げ、礼拝を続けられたのです。
生まれや性別、貧富の差、職業の違い、容姿の良し悪し、それぞれみんな違いはあるけれども、根っこの部分、人びとの心の中には同じように仏さまがいらっしゃるのだから、それを認め合って互いを敬う、このことを教えて下さっています。
「違い」「差異」を認め合う、これが仏教・法華経の根本だと思うのです。
教育の現場から宗教が排除されている昨今ですが、やはり仏教的情操教育は必要不可欠なのではないかな、と思います。
ただ、自分自身を省みて考えてみると、やはり「違いを認める」という事はなかなか難しく、大きく反省するような事ばかりが頭に浮かんできます。
しかし、やはりそこに仏教や法華経、お題目の思想というモノサシで、日々自分自身を省みて、実践していく事が大事だな~と、この本を読んで感じました。
- 2012/07/18(水) 16:51:19|
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梅雨ですね!
ただ、近畿地方、曇り空は多いですが、雨は少ないですね~
今日も梅雨の晴れ間で、ものすごく暑い一日となりました。
しかしこれからが梅雨本番、
ジメジメ・ムシムシ、特に京都は過ごしにくい季節が到来しますね。。。
さて【今日のなるほど】、
佐伯啓思著『反・幸福論』(新潮新書)を読みました。
京大大学院の教授でいらっしゃるそうです~

まだ途中までしか読んでないのですけどね。。。
本屋さんで、タイトルと帯のセンセーショナルな感じに惹かれて手に取りました。
特に帯には、
「人はみな幸せになるべき、なんて大ウソ!
稀代の思想家が「この国の偽善」を暴く。」という過激な一文が。。。
なんか、煽っとんな。。。と思い、一度は棚に戻そうかと思いましたが、
帯の裏部分には、
「日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。(中略)現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思いだしてみたいのです。(「はじめに」より抜粋)」という、まっとうなご意見があったので、購入してみました。
最近、タイトルと中身が違う新書って多いですよね~
タイトルで釣ろう、という出版社の魂胆が透けてみえる、というか。。。
この本もそういう類なのかな~、と思って読み進めていくと、
なかなかズバズバ斬り込んでいらっしゃいました。
現代の日本人・日本社会をなんとなく包んでいる「幸福感(幸福観?)」というものを様々な社会問題などの事例を通して分析され、論じていらっしゃいました。
「なるほど~」と納得できる部分と、「う~ん」と唸る部分と両方ある感じでした。
【今日のなるほど】な部分は以下に引用します。
「国防」について論じていらっしゃる章です。
いろいろデリケートな問題を孕んでいると思いますが。。。
。。。っと、いろいろと本文を引用したのですが、引用というのは、非常に難しいですね・・・
デリケートな問題だけに、途中までの引用だと論旨が誤解されてしまう恐れがあるものになってしまったので、全部消しました。
まとめると、「尖閣諸島」の問題、「日米安保体制」の問題、「平和憲法」の問題、そこからあぶり出される
「戦後日本」の問題・・・
自分達の国土を、自分達の手でで守りきれないことのジレンマ・・・
「果たして戦後65年、戦争に巻き込まれなかった我々日本人は、本当に平和で幸福であったのか?」と、著者は問うていらっしゃいます。
ある若い社会学者が、
「日本は、戦争が起こった時に国のために戦う人の割合が15.1%と世界最低の国防意識を誇る。そのことを、非常に好ましいことだとさえ思っている。」と、ある雑誌に書いていました。このことをどう受け止めるか?
ちなみに、この方は20代後半の新進気鋭といわれている社会学者の方です。
日蓮聖人門下の我々にとって
、「立正安国とは?」「世界平和とは?」「浄仏国土とは?」様々な事を考えさせられた一冊でした。
- 2012/06/14(木) 23:31:12|
- 【今日のなるほど】
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