墨染寺blog~ぴぐ坊のつれづれ日記~

ぴぐ坊こと当山副住職が仏教のことを中心に、日々のよしなし事を綴ります♪

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【今日のなるほど】『東洋的な見方』

私はそこそこ本が好きです。
ただ、「趣味は読書です」と公言するほどいつも読んでるわけではないですが、
時間があるときは、なるべく本を読むようにしています。

父親が結構本が好きで、昔から父の本棚には難しそうな本が並んでいて、
訳分からんながらも、ページをパラパラめくっていた記憶があります。
そんな父は口癖のように、「頭良くなりたかったら、本を読まなあかん。」と言っていました。
ですので、「本を読む」という習慣をつけてくれたのは、そんな父の言葉だったと思っていて、
今更ながら、感謝しています。

そして僧侶となった今、「本を読む」という事の重要性を改めて感じてまして、
最近では、最低でも月10冊は本を読もうと、自らに課して読書に励んでいます。
(なかなか時間がなくて、ノルマ達成できませんが・・・)

ということで、自分が読んでいる本の中で、
「なるほど~!」
と思った部分を紹介がてら、【今日のなるほど】と題してブログにアップしていこうと思います。
(本だけじゃなく、映画や音楽といったものもいいかな、と思っています。)

今日のなるほどは、コチラ↓

IMG.jpg

鈴木大拙著『東洋的な見方』(岩波文庫)

主に禅・禅文化といったものを研究されていた仏教学者の方だそうです。

西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。
 自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら(みずから)」または「自ら(おのずから)」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ずから出るままの働き、これを自由というのである。
 (P64~65) 



自由の本質とは何か。これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。(中略)松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束なきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である。必然とか必至とか、そうなければならぬというが、他から見ての話で、その物自体にはあてはまらぬのである。 (P67~68)



ずいぶんと私たちが考える「自由」とは違うようで、仏教的に「自由」というものを捉えて述べられていて、「なるほど~」と思いました。
「あるがまま」「諸法実相」の世界観だな、と思いました。
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  1. 2012/06/05(火) 16:16:22|
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