墨染寺blog~ぴぐ坊のつれづれ日記~

ぴぐ坊こと当山副住職が仏教のことを中心に、日々のよしなし事を綴ります♪

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京都の法華信仰の原点☆

昨日11月13日、大本山妙顕寺さまの御会式に、式衆として出座させて頂きました!

妙顕寺さまは、京都八本山の一つ、日蓮聖人の孫弟子にあたる「龍華樹院日像上人」がお開きになられたお寺です。
山号を「具足山」と称し、本山 妙覚寺・本山 立本寺とあわせて「三具足山」と呼ばれています。
いずれのご本山も、日像上人がお開きになられました。

11月13日は、日蓮聖人の月遅れのご命日でもあり、また日像上人のご命日でもあります。
ですので法要では、日蓮聖人の731遠忌と、日像上人の671遠忌のご回向を併せてお勤めいたしました。
日蓮聖人と日像上人のお二人に、たくさんのお塔婆があがっていました。

日像上人と言えば、当時の都・京都にお題目・法華経を弘められた、偉大なる先師上人です。
この日像上人がいらっしゃらなければ、都にお題目が唱えられることはなかったと言われる程のお方です。

日蓮聖人は、幕府のある鎌倉や晩年の身延山など、東国が中心的な布教活動の場でした
大聖人御年61歳の10月13日、お亡くなりになる直前に、孫弟子にあたる経一麿(のちの日像上人)を枕元に呼び寄せ、
「わたしは、ついに御上がまします帝都での弘通は叶わなかった。御上にこのお題目をお届けすることができなかった。お前が大きくなって一人前の法華経の行者となった暁には、私の思いを受け継ぎ、どうか京都でこのお題目を弘めてほしい
と仰り、経一麿の頭をなでながら、帝都での弘通を託されました。

014 日蓮聖人 入滅


経一麿は、名を「日像」と改め、日蓮聖人の想いを受け継ぎ、25歳の時、遂に京都へ上る決心を固められました。
日像上人は上洛の前に、京都での布教成就と不退転の決意をさらに固く誓うために、鎌倉由比ヶ浜にて100日間、水行と読経三昧を続けられ、2月10日の満願の日に、ついに京都への第一歩を踏みはじめられたのでした。
この100日間の寒修行が、荒行堂の100日修行の由来だと伝えられています。

北陸加賀・若狭方面で、日像上人は通る村々で伝道活動を行いながら、京都へと向かわれます。
そしてついに上洛を果たすと、休む間もなく辻に立って御説法。来る日も来る日も辻説法を続けられました。
始めは見向きもしなかった町の人々も、しばらくすると、日像上人の御説法に耳を傾け始め、商人や町人を中心に信者が次々と増えていきました。
この破竹の勢いに目をつぶっていられなくなった諸宗の勢力は、権力を傘に、日像上人を洛外へと追放してしまいました。
洛中を追放されること、三度に及んだ、と伝えられています。
三度目に帰洛を許された日像上人に、御所のそばの土地が与えられ、そこに一宇のお堂を建立されます。
これが、大本山妙顕寺のはじまりです。

このように、京都のお題目信仰は、日像上人より始まり、妙顕寺から始まったと言っても過言ではありません。その後、室町時代には、洛中には21もの本山が甍を連ね、京都の町衆の大半が法華信者であったと伝えられていますので、このような町衆の法華信仰も、日像上人がいらっしゃったからこそだと言うことができます。

このような日像菩薩の671遠忌の法要に出仕させて頂き、非常に感激いたしました☆
最後に、色づき始めたステキなお庭の写真をアップいたします☆

DSC03394.jpg


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  1. 2012/11/14(水) 23:43:54|
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