日蓮聖人は、38歳の時『立正安国論』という書物を書き著されます。
この『立正安国論』という書物をお書きになられるきっかけとなったのが、当時の政治・文化の中心地であり、日蓮聖人がその布教の拠点とされた鎌倉を襲った大地震でした。
以来、飢饉・疫病・洪水などの自然災害が頻発し、大勢の人々が苦難を余儀なくされました。
この光景を目にされた日蓮聖人は、一切経(全ての仏教経典)を紐解かれ、その災害の原因を探られたのでした。
その結果、人々が『法華経』という正しい教えを信仰せずに、誤った教え(念仏)を信仰していることに原因があると結論付けられました。
このことを『立正安国論』にまとめられ、時の最高権力者である執権・北條時頼に上呈されました。
この『立正安国論』の上呈は、幕府や念仏信者などに大きな波紋を与えました。
自身の信仰を否定されたことに激怒した者たちによる、日蓮聖人への迫害が始まりました。
その年の夏には、鎌倉松葉ヶ谷に構えていた草庵を焼かれるなど、命に及ぶ法難に遭われたのでした。
何とか難を逃れた日蓮聖人でしたが、翌年5月12日、『立正安国論』が幕府批判にあたるとして、突如逮捕されてしまいます。
そして、日蓮聖人は伊豆流罪の刑に処せられたのでした。

伊豆での流罪の生活は、1年9ヶ月にもおよびました。
その間、日蓮聖人は、船守弥三郎夫妻に助けられながら、『四恩抄』や『教機時国抄』などの書物を書き著され、法華経の行者としての自己を認識されるに至ります。
「大難四ヶ度、小難数知れず」
と言われる日蓮聖人のご生涯。
その最初の王難と言える伊豆法難のご聖日でございました。
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